2013年3月24日日曜日

雑談力

 今朝のNHKテレビ「サキどり↑」で、「鍛えないと損するョ!“雑談力”」なる特集をやっていました。
 番組で紹介されていたのは、例えば富山県のある銀行で、カウンターの営業業務に雑談を意図的に取り入れ、成績の低迷に歯止めをかけようというもの。
「お客さん、スマホって使ってらっしゃいます?」
「そんなん、使えないよ〜」
「わたし、週末に買ってきました」
「へえ、スマホねえ」
(打ち解ける)
こんな感じです。

 番組では、雑談すると「信頼関係ができる」などとも言っています。どういうことでしょう。他にも、大学生に落語家が「雑談は共感だ」と教えていましたが、学生に雑談を教えるのは、悪くないなと思いました。だって、雑談しないでしょう、特に男子は(取り上げられていたのは、工科大学でした)。
 出演者は、雑談についてのそれぞれの立場からの発言をされており、それはそれぞれおもしろいと思いました。

 そもそも、雑談とは何でしょうか。広辞苑によると「ざまざまの談話。とりとめのない会話」とあります。仮になんらかの下心があったとしても、それ自体に何か目的があって話すわけでないのが雑談でしょう。

 さて、影響力の法則で、雑談の効能をどうとらえるか。

 雑談では、生活や仕事に関する情報交換、自分自身についての情報開示などが行われており、自分や周りのできごと、気持ちなどを口にすることで、実はカレンシーの交換をしています。とはいっても、ここでは「とりとめのない」些細な話が良いのだと思います。いきなり、深刻な話、難しい話を持ち出されても、かえって話が続かない。
「先週いっぱいで、私、解雇されました」
「・・・・」
 よく、政治と宗教の話は避けろ、といいますが、価値観の相違があるかもしれないからだけでなく、そもそも難しい話は続かないのです。お返しのしようがない。

 とりとめのない話の重要な点は、話に話を返すことにあるのでしょう。こちらの意図することをくんでくれた、と感じられるのはカレンシーです。ちゃんと対話が成りたっているというのは、カレンシーの交換が続いているということですね。交換が続けば、「こいつはつきあえる」とか「ちゃんと返すやつだ」と認識される。
 この「ちゃんと返す」ことが、信頼につながります。信頼とは行動に一貫性あると信じることです。小さな交換を繰り返していくと、大きな交換も返すと信じられますよね。だから、小さな交換は馬鹿にできないどころか、大きな交換をするのに必須なんですね。

 ですから、番組でやっていたように、いきなり商売の話をしてもうまくいかない。雑談しながら、商売のための心の準備をしなければならないのです。雑談がはずむと、そこで初めて商売の話ができるわけです。
 わざわざテレビで取り上げて、「雑談力」などという言葉をつくってでも取り組む価値がある、ということでしょう。

2013年3月21日木曜日

廃棄物最終処分の依頼

 私は現在自治会長をお引き受けしているため、自治会関係の会合に出させていただくことがあります。先日は、市長を囲んで施政方針をうかがう機会がありました。そのなかで、ああなるほど、と思わされるお話がありました。

 市では北関東の2市に廃棄物最終処分を依頼しているのだそうです。原発事故以来、廃棄物(焼却後の灰)の放射能が問題となり、処分を依頼する側と、受け入れる側の関係は、微妙になっています。受け入れを拒否され、灰を抱え込んでいる自治体もあると報道されていましたね(その後どうなっているんでしょう)。

 この2市も例外でなく、そのうちの1市の市長が、何かのきっかけで怒ってしまい「各市の受け入れを白紙に戻す、ただし、浦安市ともう1市を除いては」と宣言されたのだそうです。きっかけが何かわかりませんが、件の放射能問題は引き金のひとつでしょう。首長の立場からすると、支持者を含めた住民から「受け入れ阻止」などといわれたとしたら、強く出なければならないですね。弱腰、と思われたら、次は落選するかもしれない。私も怒ってしまいます。

 でもここがおもしろいのは、なぜ2市が例外とされたのか、です。我が町の市長によると、「廃棄物を受け入れていることに、市長が直接やってきて謝意を示したのは、浦安市ともう1市だけ」なのだそうです。これをカレンシーの交換で考えると、「カレンシーを受け取っていることを認め、感謝していたのが、先方にとってカレンシーになっていた」ということですね。それ以外の市は、カレンシーのバランスが崩れていた、つまり一方的に汚いものを押しつけていたということでしょう(もちろん、金は払っていましょうが、金で解決しようとするのは、ネガティブ・カレンシーになることが多いですね)。そのバランスを一気に取り戻そうと、この市長さんは受け入れ拒否宣言をされたのだと思います。
 同様の自治体間の関係は、全国的に見られます(本当は、世界的にです)。人口が少なく、財政基盤が弱いところは、無理を引き受けているのですね。その最たるものが原発や米軍基地でしょう。引き受けさせている当事者は、そのありがたみを忘れていることが多いのかもしれません。

 さて、ここで、自分のことを振り返ってみると・・・。やっかいなことをやらせている部下や、下請けを思い出してみましょう。バランス、とれているでしょうか。これは、相手がどう感じているか、というのが肝心です。彼らが「自分はカレンシーを支払いすぎだ」と思っていれば、努力するのは損になります。ひょっとしたら、彼らに力を発揮させるのには、もっとカレンシーを渡さなければならないかもしれません。
 ただ、それはお金で解決するなどでなくて、感謝を伝えればよいだけなのかもしれませんよ。

2013年3月18日月曜日

続・部下が自由に仕事しようと思ったら

 私の取り組んでいる課題は、前回書いたような“上司と部下の奇妙な結託”から、上司、部下が解放され、それぞれが持っている力を思うように、自在に発揮できるようになることです。

 では、どのように解放されるのか。まず、思うように力を発揮できない不満やいらだちを、それぞれが認めることから始まります。例えば、上司に対する愚痴を口にしている自分に気付くことから始めます。私たちは何かおかしいと感じても、それに向き合わないでやり過ごしてしまうことがしばしばあります。優秀な従業員を雇用している会社では、「ウチの従業員には何も問題はない」と聞きます。そう思いたいのはわかりますが、不満や違和感を感じているとしたら、せめて自分には嘘を言うべきではないでしょう。

 次に、その原因は、過度に上司の期待に応えようとする部下と、自分の知識の範囲を超えまいとする上司の「奇妙な結託」にあるかもしれない、と考えてみます。
 するとこの結託のきっかけが、自分に誤りがあって恥をかくのではないか、自分の無能さをさらけ出すのではないかという不安。意見の対立から摩擦が起こり、不愉快な思いをするのではないか、上司と対立して役割を外されるのではないかという怖れなどにあると、気付くでしょう。そして、自分自身の心の中にどこか妄想的なストーリーが見えてくるかもしれません。例えば、本当に「無能さをさらけ出す」のでしょうか。現実にはそれほど気にする人はいないはずです。仮に無能さをさらけ出すことになったとしても、今取り組まなければならない仕事の価値に比べれば、小さな問題に過ぎません。使命感の欠如の裏返しといえるでしょう。少し冷静になれば、自分でも可笑しくなってくると思います。
 こうして問題のきっかけは奇妙な結託、本質は自分自身にあることを認めれば、それこそが解決の糸口となります。

 どう解決できるか。ふたつの方策があると思います。ひとつは、行動することです。リスクを冒して、自分が見ている事実を伝えること。自分の持っている知識や技術を惜しみなく開示し、組織の利益のために使うこと。さらには、上司を含む関係者の利益を考慮し、自分にできることに取り組むことなどです。私は、翻訳させていただいた「影響力の法則」という本の中に、具体的な戦術を見いだしています。それは、共通の利害を掴むことと、そのための資源(カレンシー)を出し合えるようにすることです。
 また、先に進めるためには決定したことに責任感をもつことも重要です。積極的に意思決定に関わっていくことが責任感をもつカギでもあります。意思決定に参画することを学ばなければなりません。
 そうして、結託することよりも、結果に目が向くようになります。

 一方で、結果を得ることの大義を知る必要もあります。先日電装品メーカーの方たちと話していて、これだけ通信が発達した現在、私たちの仕事は岐路に立っている、と聞きました。それを聞いた私は、「みなさんが世界の通信環境を改善したから、人々がつながったんじゃありませんか。世界の紛争地帯は、ネット環境のないエリアが多い、そればかりと言っていい。みなさんの努力が、紛争を回避し世界に平和をもたらしているんでしょう。そのための挑戦なら、まだまだ取り組まなければならない課題があるはずですよ」と返しました。すると、彼らの顔が明るくなり、エネルギーが漲ってくるように感じられたのです。
 結果に目を向けるには、得たい結果が魅力的でなければなりません。事業の本質的な課題は、ほとんどが道半ばなのではないでしょうか。例えば、自動車を普及する、ということは達成してしまったように見えますが、人々の移動と交流を促進することは、ずっと続く事業のはずです。本質的な課題に向かえば、使命感とエネルギーはより高まってくる。やる気がない部下には、本質が見えないのだろうと思います。だから、大きな仕事を任せられなくて、ますますやる気がなくなる。もったいない話です。
 ひとりひとりが、事業の本質を自らの責任で見いださなければなりません。そのためにも、各々がよく意思疎通して、事業の使命を理解しなければなりません。

 行動する(カレンシーの交換)こと、使命の理解とも、上司がしてくれるとは限りません。私たちの誰もが、取り組んでいかなければならないのです。上司もそうです。部下は黙っていても会社の方針をわかっているとは思ってはなりません。わかっていても、リスクを冒して本音を言わない上司には、とぼけた顔をするでしょう。自分ひとりにリスクを押しつけられるのはごめんですから。

 部下が自由に仕事しようと思ったら、上述のように上司と部下のゲームを変えることこそが肝要です。

部下が自由に仕事しようと思ったら

 会社勤めのビジネスマンにも、今まで以上に主体的、自主的な仕事ぶりが求められているのは、だれもが感じているところでしょう。
 従来、会社勤めであれば上長の指示、命令に従っていれば良かったのです。上長が経験からくる適切な判断を下してくれ、部下はそれに従っていれば間違いなかったわけです。今でも、そのような上司部下関係が通用する組織や職場は、少なくないかもしれません。しかし、変化が激しくなってくると、上司の古い経験だけでは良い答えが導き出せなくなります。それどころか、むしろ古い経験が成功の妨げになることもあります。現場の現実を見て、判断できることが重要なのですが、経験があると、かえって市場や顧客の変化を理解できず、「以前と同じようなことが起こっている」と認識してしまうのかもしれません。( 私はここでも「カレンシーの交換期待」が働いているために、返してもらえると思って、舵を切れない心理も働いていると思います)

 いずれにしても、現場のメンバーが、起こっている現実を理解し、適切に判断できる必要があります。そこで部下の主体性が重要になるわけで、その主体性とは、自主的に判断して行動することを指しています。逆は指示待ちです。

 ところが、部下の側からすると、主体的な判断は危険です。誤りがあったら自分が責任を取らなければならない、自分の無能さをさらけ出すことになる。意見が対立すれば、組織の中で摩擦がおき、不愉快な思いをしなければならない。そして、上司の意に沿わない判断をしたら、上司と対立し役割を外されるかもしれない。など、明らかな落とし穴があるのです。だから、自分で決めない方がいい。上に決めてもらって、指示に従うという一番楽で安全な方法をとろうとします。
 私自身、自分で決めて進めようとすると上司が顔をしかめるので、上司が喜ぶように仕事をしたことを、思い出します。

 これは部下にとって安全なだけでなく、上司にとっても安全です。自分が理解できる枠を外れませんから。こうして、上司と部下の、奇妙な結託ができてしまいます。コーエン、ブラッドフォードが「Power Up責任共有のリーダーシップ」(2010税務経理協会)で問題としているのは、この結託です。互いに安心領域から離れずにすみますが、変革は妨げられ、パフォーマンスも低下していきます。そして、優れたリーダーシップ待望が起こってくる。何でも知っていて答えられる力強いリーダーなら、優れた指示を出してくれるに違いないと。

 でも、これが皮肉なことには、有能なリーダーが出てくると、部下はリーダーに依存してしまい、しばしば考えなくなることです。つまり、主体性を発揮しなくなってしまうのですね。

 この問題を解消するにはどうしたらいいか。それは、まず上司と部下の結託があることを認めなければなりません。そして、部下の主体性を発揮させることを第一に考え、そのためにできることを、上司と部下がともに学ばなければならないのだと思います。これは決して上司だけの問題ではないのです。

 もし、上司に不満あれば、それはあなた自身の問題でもある。逆に部下に問題があれば、それは上司の問題でもあるということ。ここから始めていくことしかありません。

 部下にできること。それは、上司が何を目指しているのかを理解することです。上司としては、「この部下は、よくわかっている」と思う部下にこそ、任せられます。ですから、会社の戦略や部門の方針、上司のキャリアゴールまで、理解するように努めること。「こいつはわかっている」と思われるまで、よくコミュニケーションをとり、上司の目指しているところを、ともに達成するパートナーであることを認めさせること。

 コーエン、ブラッドフォードによれば、この努力も「責任共有のリーダーシップ」であるのです。

2013年3月13日水曜日

コーチング、と言う気持ち

 管理職の集まりに出ると、必ず部下の問題が話題になります。そして「コーチング力を高めたい」という話になるのです。先日の会合でも全員が「コーチング力」を高めたい、と一致しました。

 マネジャーの能力開発に関わっていて、これはいい傾向であると考えたいのです。自分の側に問題あり、と認識するのが、学習への動機付けになるからです。しかし、内心懸念も感じます。それは彼らの言うところの「コーチング」が、往々にして服従させる手段であることが多いからです。

 人は他人より強くありたい、自分の思うようにしたい、といった欲求を持っています。誰でも多かれ少なかれ持っています。そのおかげで、他人と関わり、互いに影響を及ぼしあったり、学び合うことができるのでしょう。例えば、教師に「良い知識を授けたい」「良い大人に育って欲しい」という強い意欲がなければ、良い教育はできません。
 けれども、実際には何でも望みは叶わない。だから思うようにならない現実にも悩みます。悩まないのは仏の世界であり、そういう悩みもあるから、修行する人、神にすがる人がいるのかもしれません。人間には生きるための欲求があり、その中には他人に対する欲求もあります。ですから、マネジャーになるとなんでも叶うと思いたい、実は全然そんなことはないのですが、せめて部下に対しては思うようにしたい、とあなたが思っていたとしても、私は決して笑いません。そう思うのは自然なことだからです。

 しかし、部下を思い通りにできるというのは、もはや現実的ではありません。部下には人格があるし、欲求がある。部下の専門知識に頼らないで、この難しい世の中で良い結果を出せるはずはありません。年功序列も崩れています。人材が流動化し、先輩は絶対ではありません。「神のごとく絶対」ではありえないのです。

 私が冒頭感じていると書いた懸念は、「コーチング」への期待が、それでも何とか部下を思うようにしたい、というマネジャーのすがるような思いの反映、と感じられたからです。でもそれは現実的ではないのです。
 この問題を力で解決しようと考えていたら、コーチングが機能するのは難しいでしょう。マネジャーはいつまでもフラストレーションを抱えることになってしまいます。

2013年3月6日水曜日

利になると感じる

 昨日から出張で大阪にきています。

 いつも自宅最寄駅で大阪行きの乗車券を買います。エクスプレス予約を使えばいいんでしょうが、駅員と話すのもささやかな楽しみです。

「大阪まで乗車券と次ののぞみの特急券をください」
「乗車券はどちらからですか?(東京駅から?)」
「ここから」
「ありがとうございます!」
「帰りももらいましょう。ここの売り上げになるでしょ?(東京駅じゃなく)」
「ありがとうございます!」
「地元の売り上げに貢献しなくちゃね」
「ありがとうございます!では、こちらで買っていただけるので、ご存知ですか?神戸まで買うと往復割引がきいて、大阪往復より安くなるんです。そちらでご用意しましょう」
「おっ、それはありがたい。ではそうしてください」

 こちらが相手の利益に配慮していること(この場合は、売り上げの拡大)を感じた駅員が、今度はこちらの利益を考えてくれたのですね。

 かくして、切符を買うのも小さな楽しみとなったのでした。win-winが感じられるカレンシーの交換は、少しだけ毎日を楽しくもしてくれるようです。