2013年2月11日月曜日

目標設定

 部下に100の目標を与えるとき、「目標は100」と伝えますか?

 日本の会社のマネジャーのみなさんと話をしていると、しばしば違和感を感じることがありました。それは目標に対する認識についてです。例えば、営業マネジャーが部下に貸している目標が、必要以上に高い気がするのです。それも、途中からどんどんあげていきます。それをチャレンジとかストレッチというのでしょう、それ自体を決して否定する気はありません。ただ微妙にニュアンスが違うのです。あるとき、ふと気付きました。「100と言ってもできないから、120ぐらいを課しておけば、結果100ぐらいになるんじゃないか」という意味で言われることがあると。そう思うと、これでいいのかなと気になり始めたのです。

 私はいくつかのアメリカ系企業に勤めましたが、彼らは「100は100である」です。なぜならそういう契約だからですね。「120」などと言ったら「信用していない」とか「引っかけようとしている」と思われるに違いありません。みなさん、どうされているのでしょうか?
 それで最初の質問です。「目標は100」と伝えますか、「目標は120」と伝えますか?

 どちらがいいか、という議論よりも、まずひょっとしたら自分が考えている目標の概念をチェックすべきでしょう。部下との認識にずれがあれば、知らず知らずのうちにネガティブカレンシーを撒いてしまうかもしれない、と思った次第です。

2013年2月1日金曜日

ネガティブカレンシーを返さない

 「目には目で、歯には歯で」有名な一節です。「目をとられたら、目を奪い返せ」という理解がまかり通っていますが、「とられた以上のものを奪うな」というのが主旨だそうです。ハンムラビ王が発布したハンムラビ法典が出典です。紀元前1800年頃でしょうか。
 人間関係の交換のルールを示しており、興味深いものです。それをまた「取り返せ」と理解していたのも、興味深いですね。それほど、同じぐらいの価値が交換されるべき、という社会通念が普遍的なのではないでしょうか。

 旧約聖書を読むと、やはり社会や外交が交換で成りたっていると思います。信仰は社会に対する信頼となり交易が発達します。信仰が相手(取引相手)に対する怖れを弱め、交易を盛んにするのかもしれません。やがて信仰が薄れると、弱体化してくるか強大化しておごりがでると、救いの王が出てきて、戦争に勝ってしまう。おもしろいなと思います。
 
 でも、相手を徹底的に追い詰めてしまうのは、すさまじいと感じます。ガザのパレスチナ人が、旧約の時代からイスラエルの民と争っていたというわけです。何千年も。今もイスラエルはパレスチナを攻撃し、パレスチナは打ち返しますが、旧約でも同じことをやっているわけです。ガザで。このネガティブカレンシーの交換は、いつ終わるのでしょうか。長く傷んだ経験は、容易には止められません。双方に止めたくない人がいるのも、わかります。

 民族の紛争は、こうして終わることがないかもしれませんが、私たちの身近な人間関係の紛争は、私たちの気持ち一つで終えることができるはずです。
 ひとつは、顔を合わせないこと。多くの人がやっています。逃げているようだけれども、これもありでしょう。ただ、いつでも避けられるわけではありません。ずっと避けていようと思ったら、誰にも会えなくなってしまう。
 ふたつめは、ネガティブカレンシーを返さないこと。やられても、涼しい顔をしている。忍耐ですね。
 みっつめは、こちらから歩み寄って、互いにネガティブな蓄積を認め合い、清算すること。「どうやって、お互いに埋め合わせようか」と話し合うわけですね。大人の対応。影響力の法則的。

 私としては、みっつめの道を開拓するのが、自分自身にとっても利益があると思います。ネットワークを拡げ、交換の可能性が広がりますから。ふたつめもいいですね。涼しい顔をしていられたらいい。いずれも簡単じゃないです。だから、今日、少しだけ挑戦してみよう、と思うのです。

 明日は、また大勢の初めての人に会えます。さて、どうなるか、楽しみです。