2013年1月31日木曜日

スポーツ界の暴力事件と上司部下関係

 女子柔道の日本代表チームに、監督、コーチからのハラスメントがあったとのこと。先日の大阪での事件以来、コーチによる暴力の問題が明るみになっています。

 今回の柔道の場合、すでに監督、コーチを処分しており、それが軽すぎるのではないか、という疑問もあります。懲戒ではなく戒告だったのは、不自然と感じます。でも、これが今の現実なんだろうなあ、とあらためて考えさせられます。

 カレンシーの交換で考えてみましょう。まず、コーチと選手の関係です。コーチは、どこか選手を所有物と見ているところがあるように思えます。所有物だから好きにしてよい、となるのではないでしょうか。あるいは、「これだけ期待し、入れ込んで指導してやっているんだから、結果を出して当然だ。それなのに、この出来では納得できない。埋め合わせしてもらおう」のような飛躍があるのかもしれません。いずれにしても、入れ込んだ分、取り返そうとするのが、暴力になっているのではないか、などと推測しています。暴力コーチは、おおむね「熱心」といわれていますよね。

 もうひとつは、どうして処分が甘くなってしまうんだろう、という点です。これは、コーチとその上長の関係です。たとえば、教師と教育委員会、コーチと柔道連盟などです。ここでも、カレンシーは上長の方が多く受け取っている構図が、甘くなる原因に思えます。暴力コーチは「よいコーチ」なのです。実績も上がっているし、熱心で評判もいい。そんな先生、上司から見ればありがたいです。そのおかげで、いい生徒や選手を獲得でき、学校やチームの評価も上がります。でも、上長から見れば、何も報いていないと感じています。人事制度上、給料をほかのコーチや教師より上げるわけにも行きません。むしろ、企業スポンサーの方が、支払っていたりします。

 この、報いていない、という感覚が、甘くなる原因のように思えます。当然、上司と部下の間も同じです。上司が部下に甘くなるのは、ちゃんと指導していないから、というケースが多いように感じます。とくに、まじめな上長ほど、そのような関係を気にします。そして、あまくなる。今日の報道によると、「警察の不祥事では、警視や警部といった幹部に目立つようになってきた」そうですが、同じ背景じゃないか、と勘ぐっています。

 この関係を乗り越えるには、「暴力はいけない、絶対しない」というコーチ側の強い意志が必要ですね。でも、本当に意志で解決できるか、といえば、難しいのではないでしょうか。そこで、上のような人間関係で考えると、
「結果はコントロールできないのだから、好成績など期待しない」
「それより、選手(部下)の成長を楽しみにする」
「部下の話をよく聞き、大事にする。そうすることで、部下に借りをつくらなければ、厳しい処分も可能となる」
といったことを、まず考え、実行するのはいかがかと思います。

2013年1月20日日曜日

LINE 1億人

 日本初SNS、LINEの利用者が1億人を突破。facebookやtwitterよりも早い達成だそうです。日本の会社(正確には韓国の会社の日本法人だそう)が始めたサービスが、世界に広がっているというのは、やはり嬉しいですね。

 SNSというのは、人々が交流する場ですから、やはりそこには様々な交換がおこります。当然、事業機会を狙う企業は、SNSからビジネスの拡大を試みます。お金とサービスの交換です。それだけでなく、様々な情報の交換。さらには、フィードバックの交換もありますね。facebookを使っていて、「いいね!」を押すと、「いいね!」がかえってくる。返さなければならない気もしてしまいます。このあたり、レシプロシティの強い働きも感じます。どのようなコミュニティでも、交換が続くことが、コミュニティの継続です。SNSが凄いのは、直接会うよりも格段に低コストでカレンシーを交換できるということだろうな、と思います。まだまだ機会が広がりそうです。

 とはいえ、低コストで交換できるとなると、他に低コストで貢献できる場があれば、容易に移動できます。事実、苦戦している老舗?SNSもありますね。私は、電話帳情報を開示できない人もいるので、LINEは使いません。考えてみれば、SNS側は、ユーザーの情報を吸い上げることで成りたっているんですから、ユーザーとSNS会社間の交換も、それなりに続くのですね。

2013年1月17日木曜日

体罰

 体罰を苦に生徒が自殺するという痛ましい事件がありました。教師の体罰については、あらためて愕然とするばかり。
 今回桑田真澄氏のコメントが朝日新聞やNHKで取り上げられるなど、あらためて体罰への非難が続出。橋本大阪市長も、体罰に関する考えをあらためた、と表明しています。
 私個人の体験では、小学校2年生のときの代用教師が、意味もなく児童を殴る男だったのを覚えています。子どもにはどうしようもなく、みんなでおびえていました。自分の感情で殴っているな、と子どもでもわかります。馬鹿な男だ、と思っていました。おかげで、暴力に訴えてはいけない、と学んだのかもしれませんが・・・。

 カレンシーの交換で考えてみると、暴力教師はどこかでネガティブカレンシーのバランスをとろうとしているのではないか。その多くは、自分が教師から暴力を受けてきているるから、と推測します。あるいは、職場で一方的なマネジメントに我慢している。だから、それを子どもたちとの関係で清算しようとする。頭ではダメだ、とわかっていてもやってしまう教師もいるかもしれません。そうなると、問題解決には、教師自身のメンタルヘルス、職場の構造変革と、強い決意が必要です。

 今回の事故を、問題解決に向けた取り組みにしていかないと、また繰り返されるでしょう。アメリカでの銃による事件、大学での一気のみの事故をと通じるものがあります。たぶん、今回の報道を何の話かわかっていない教師がたくさんいると思います。再び痛ましい事件が起きないようにするには、繰り返し、現場に言い聞かせていく必要があるでしょう。また、教師のメンタルヘルスや職場の構造を改善することも検討しなければなりません。

 さて、私たちの職場に適用できることはないでしょうか。上司と部下の関係を考えれば、少なからず似たような状況があるとおもいます。昨日会った若い現場のリーダーは、部下に対して冷たく対応していた、と反省していました。
 自分が扱われたように部下を扱っていては、暴力教師と変わらないと言われてもしかたないでしょう。

2013年1月14日月曜日

出初め式

 招待されて、地元消防の出初め式にいってきました。始めての出席。こうして町の安全のために力を尽くしてくれていることに、改めて感謝したいと思います。中には命を落とす団員や職員がいますから。
 最近では、昨年の科学工場での火災や震災で、亡くなった消防隊員、団員が、記憶に新しいところ。今日も、殉職者黙祷から式は始まりました。

 カレンシーの交換で考えてみましょう。仲間が命を捧げた、自分も危険にさらされている、という感覚は、やはりネガティブなカレンシーとして働くでしょう。貸しがある状態です。ネガティブカレンシーを感じる間は、不安に感じたり、ネガティブカレンシーを返すなど、埋め合わせするのに精一杯になってしまう。これでは今の仕事には集中できず、あまり生産的と言えません。

 そこで、何か慰めがほしくなるのは、自然なことだと思います。

 北海道神宮に行くと、旧北海道拓殖銀行の行員を祀った神社なあります。北海道入植時に寒さの中、銀行員も多くが命を落としたからだそうです。多くの神社が、不本意にして命を落とした人たちの魂を慰めています。そうすることで、今に集中できるということでしょうか。

 消防のみなさんが力を尽くしてくれるのに応えるには、励ましだけでなく、鎮魂が必要。それと同じように、ネガティブなカレンシーを清算しなければ、新しい交換がおこらない、とあらためて思いました。

2013年1月12日土曜日

給与の削減

 財務省が地方公務員の給与削減を、地方自治体に要請するとの記事を発見しました。財務省によると地方公務員の給与は、国家公務員より平均7%多いので、国家公務員並みにせよ、というわけですね。それに対して、首長は反発しているとのこと。

 首長にとって、自分の給与が減るわけでもないのに反発するのは、なぜでしょう。

 それは、「そんなことしたら、職員が働くなるし、ガバナンスがきかなくなる」と感じるからでしょうね。
 上司と部下との関係は、「困難な課題と給与の交換」が基本です。「いい仕事には、いい給与を」というわけです。これは、上司からみても部下からみても合理的です。そこで、一方的に給与を下げる、とか無理を言うのは、リーダーシップをかえって損なうんじゃないか、と心配するのだと思います。特に首長の場合は、選挙で決まりますから、公約を果たさなければなりません。職員には難しい課題、無理難題を要求することも少なくないのです。それなのに「給与を減らせ」というのは、公務員の協力を得られなくなり、公約を実現できないリスクを高めます。
 だから、反発するんだろうな、と思います。もちろん、一般的な上司と部下の関係でも、同じだと思います。

 リーダー側はどう対応すべきか。困難な課題を実行させるには、やはり給与とは異なるカレンシーを部下に受け取らせることでしょう。そして、部下の便宜をなるべく受け取らない。そうすれば、カレンシーのバランスからして、給与の削減に着手しやすいはずです。逆に言えば、反発している首長は、部下にたいしたことをしていないんじゃないか、と考えます。
 実際は、どうでしょうね。

2013年1月8日火曜日

修行者の集まり

 この休み中に、阿含経典の一部を読む機会がありました。といっても、お経は慣れないので読むのが大変。「続きは今度」となってしまいましたが。
 なぜ阿含経典など読もうとしたかといえば、それは「僧伽」について説明があったから。僧伽とは、出家した修行僧の集まり。同じ志の者たちの集まりなので、チームに繋がる手がかりがあるかと思ったのです。

 僧伽の繁栄には、少なくとも7要素あるようです。
1 会合をもつ
2 ともになすべくことをなす
3 定めたことを行い、それ以外はやらない
4 他者、特に先達を敬い、耳を傾ける
5 欲に動かない
6 他から離れて行動する
7 よい行いを奨励する

 こんな理解で大外れではないと思います。

 チームとの共通点も多いですね。感心しました。
 でも、他から離れているという点だけは、必ずしも通じないでしょう。
むしろ、外部との交流を通じて、目的を果たすのがチームであるからです。他から離れれば集中できるのは間違いありませんし、その効用は認めますが。

 ああ、こうかいていると、別の考えも浮かんで来ました。集中できる環境の確保も、マネジメント上の課題かもしれません。

 何れにせよ、大いに参考になりました。

2013年1月7日月曜日

仲良しクラブ

 互いに甘い集団を、揶揄して「仲良しクラブ」と呼びますね。仲良しクラブは、よい結果を産みませんが、結束力があるだけにかえって厄介です。
 そして当然ながら、仲良しクラブを100倍強化しても、仲良しクラブにしかなりません。

 チームになるには、共通の目標と、お互いに対する影響力が必要。共通の目標は、チームの前提でもあります。先ほど見つけた日経の記事。買った土地が液状化して危機的な状況になってしまったものの、なんとか早く売らなければならないデベロッパーは、結束して新技術を市場化しました。1年あまりで着工したので、早い決断をしたと感心します。

 また、チームになるには言いたいことを言いあって、学び合うことも必要です。

 対して仲良しクラブは、仲間を慮って妥協してしまいます。でも、長いつきあいの仲間だと、本音を言いづらかったりもします。若者たちですら、互いの空気を読みながら、遠慮することを覚えます。若いのにもったいないなあ、と思うこともあります。

 「今年は仲良しを脱皮する」というのも、悪くない目標じゃないでしょうか。

2013年1月6日日曜日

待つこと

 クリスマス、小学生の甥っ子に「モンテクリスト伯」をプレゼントしました。復讐の物語ですね。でも、自分は読んでいたか?自信がない。そこで、全部を読んでみることに。

 物語の説明は省略しますが、面白かった。子供へのプレゼントとしても、よいでしょう。正義は勝つ、というメッセージは子供には必要だと思います(悪は続かないも)。

 もっとも印象的なのは、最後にあった「待つこと、希望を持つこと」ということ。主人公モンテクリスト伯が助けるマクシミリアンは、恋人ヴァランティーヌが死んだと思い、生きる希望を失います。そこでモンテクリスト伯がマクシミリアンに伝えたのが、「待つこと、希望を持つこと」でした。実は、ヴァランティーヌの死は偽装。本当は生きています。私が印象的だったのは、だから本当のことを言ってもよさそうなものなのに、主人公は青年に「待つこと、希望を持つこと」「私を信じること」と言って励ますだけだったこと。恩人の息子に、死ぬような苦しみに耐えること、この大切さを学ばせるためだった、と示唆されています。

 私たちは、こちらからカレンシーを渡せば、すぐかえってくると考えがちです。とくにプレッシャーがかかってくると、すぐなんとかしてほしい。でも、時には待たなければいけません。待つのはつらい。収穫が夏を越え、台風をやり過ごし、秋になるように、結果はすぐでないこともすくなくありません。
 そんなときに、死ぬ思いをして待つ、その先に希望がある。そう信じられたら、カレンシーを与えることもできる、平たく言えば、がんばれるのですね。

 一方、待ちきれない人もいる。そうして続けていた努力をやめてしまう人もいるし、なかには自死する人もいる。これも、その人の立場から見れば、正当なのかもしれませんが、その背景にあるのは、欲しいものは手に入る、結果は得られるという考えではないか。思うようにならないので、諦めてしまう。何でも思うようにならないのが許せないのは、成功を続けた人にほど見られるようです。
 でもそれは現実的でないし、幼子のすることです。そして、長い目で見れば、心も懐も貧しくなっていく。

 私たちに求められるのは、待つこと、希望をもつこと、信じることを通じた成熟である、というのが、この本の大きなテーマである、と感じたのでした。

2013年1月3日木曜日

分け合う心

 今朝の讀賣、社会面から。
 確かに、儲かっている会社ほど殺伐としていて、意外にみんな幸せじゃないな、と思ったことがあります。

 分け合う心にこそ幸福があるのかもしれませんね。

チームの喜び

 私は、働くことはボランティア、つまり主体的、自主的なものだと考えています。

 金を稼ぐため、母親を喜ばせるため、親父に認められるため、お客の喜ぶ顔を見るため、自分自身の成長を感じるためなど様々な理由はあります。
でも、いずれも自分の理由という点で共通しています。ですから、それを「言われているからやっている」などと考えるのは、何とも惜しい。仕事で何かが得られるわけじゃないから、といって別に熱中できるものを探しているなんて、あまりにも残念なことです。

 なかには、働くこと自体が喜びとなってしまうことがあります。働くことを通じて新しい自分と出会う。思いがけない力を発揮する自分、発見する喜びに感動する自分。そんな体験が働く目的になったらしめたものです。そこには何の見返りも求めない、真のボランティア精神があります。

 そのような体験を一人でするのは難しいものです。でも仲間がいれば、手が届く、それが私たちが目指すチームです。私たちは積極的にチームに加わり、チームを形成し、チームに参加していかなければなりません。また仲間にチームを体験させなければなりません。それが真の喜びにつながるのですから。

2013年1月1日火曜日

新年を迎えて

 新年あけましておめでとうございます。

 新しい年は、アメリカが財政の崖を回避できるかどうか、という厳しい局面からスタートしました。どうやら、転落は回避できそうです。民主、共和両党が、協議の末に歩み寄り、危機を乗り切ったことに安堵するとともに、感心しています。支持者からは、厳しい突き上げがあったに違いありませんから、最後は共通の利益に焦点づけるしかありません。転落は避けたい、まあ当然ですが、中には転落しても、自分の主張を通したい人もいるから大変です。

 今年はどうなるか。基本的に世の中は複雑さをましていくでしょうから、利害の衝突も激しくなるでしょう。エネルギー資源の採掘技術の飛躍的向上によって領土紛争が激しくなるように、技術革新によって今まで顕在化しなかった問題が、明らかになる気がします。
 金融緩和も度が過ぎれば国際紛争になります。新興国は追い詰められ、身動きが取れなくなれば、反撃せざるをえなくなるかもしれません。

 こんな状況でこそ、ひとびとの知恵が問われます。
 そもそも今、われわれに何が求められるのか。そのビジョンを描き共有すること。
そして、ビジョンの実現のために、いかに献身するか。
艱難にあったとき怖れない心と、恥に耐える心があれば、目標を見誤らないで、前に進めるでしょう。

 私のビジョンは、広く社会が資源を共有し、紛争を回避しうる世界の実現です。奪い合うのでなく、与え合う社会ですね。それによって、様々な問題解決と課題の達成を果たしている姿を描きます。

 それには、自分がそうしていないと。そのためのベストを尽くしたいと誓っています。

 みなさんにとって、今年1年、素晴らしい年になりますように!